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山田みやこ
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7月25日

成田からソウルへ

戸主制を廃止し、女性議員を増やすためのクオーター制も実現させて、女性運動のパワーに触れ、女性議員との交流を深めて両国社会の課題を学び合う。また、過去の植民地支配の歴史を学ぶため、独立記念館や戦争と女性の人権博物館、ハンセン病患者強制収容所跡を訪ねた。

「ジェンダー政治研究所 ヨセヨン」に通訳をお願いした。

 

北村韓屋村

成田から仁川国際空港へ到着。空港でアクシデントに遭遇。中国からの麻薬密輸の現場を目のあたりにした。ビックリ!

昼食に韓国冷麺を食べた。麺が長いのでハサミでチョキンチョキン。なんとも受入れがたし。ただし、味は抜群に美味しかった。

 

韓国民俗村でしか見られない韓屋が集まるエリアで、実際に一般市民が居住している。韓屋保存地区に指定され、美しい景観が保たれている。朝鮮王朝時代に地位の高い官吏や王族が居住する高級住宅地として、政治、行政、文化の中心地だった。現在は、やはり富裕層が住み、韓屋をリフォームしたおしゃれなカフェやショップだけではなく、昔ながらの商店も健在し新しさの中にも懐かしい雰囲気がある。

 

広蔵市場

1905年に国内最初の公設市場としてオープン。織物、韓服、青果、キッチン用品、魚、肉などありとあらゆる品物を扱う大きな市場となっている。アーケードの両サイドには店舗と真ん中には屋台がズラーっと立ち並んでいる。夕方5時位に行った時には韓国味噌の香りがぷーんと漂い食欲を誘った。集合時間を決め、各自の自由行動でそれぞれ気の向くまま屋台に座り食事をとった。私は通訳の李さんのおすすめで、直接緑豆を挽いて焼いてくれるピンデットッ、ヤマッキンパッ(韓国海苔巻き)、スンデ(肉の腸詰め)、もちもちコッテギ(から~い)の美味しいお店にはいりました。

マッコリも注文し、韓国の屋台食を味わった。何もかもから~い。ひと通り食べ終わると、高麗人参茶、チマチョゴリの仕立て屋さん、果物のジュース 屋さんいろいろ歩いて回った。

 

7月26日

国会見学

今年4月の第20回国会議員総選挙で民主党が第一党になり、与野党逆転となった。

民主党女性局長の案内で国会の中を見学。日本と違い一院制。2006年に議会が電子化されペーパーレス化となった。最初は戸惑ったがテスト期間を設けなんとか順調に運んだ。公開が原則で会期中はスマホでリアルタイムに中継される。第17回国会から議員立法が増えた。10人の賛同で上程可能に。議員評価項目に発議数が公表される。政府側が議員に頼んで議員立法として上程など。

 

国会議員との交流

1987年に民主化運動が起こり、女性に良い風となった。1995年の北京会議において意思決定の場に女性の参画が示され、女性パワーが表面化した。2000年にクォーター制導入し、女性国会議員は30%に増えた。最初は政党の比例で立候補し、仕事ぶりを有権者が認めて、引き続き地域区から立候補し議席を獲得している。2002年統一地方選では比例が50%に。比例名簿には男女交互の順番で載せた。,/p>

2003年に女性団体が連帯し、真の参政権運動とも言える運動をした。力を入れたのはロビー活動で提案書を提出。議員への要請、議会傍聴を国会議員並みに出席した。運動が実り比例10議席を増やした。その後、さらなる制度改正をして今年4月の総選挙では比例から女性議員が51人誕生した。きっかけはやはりクォーター制である。

 

韓国は儒教の影響を受け、男子は特に重要視され女性軽視の思想が戸主制として存在していた。家を継ぐ男子を生まなければならないという圧力を生み女児堕胎問題をはじめ人権問題の原因にもなっていた。近年、離婚、再婚など家庭携帯が多様化し社会に合わず形骸化した。戸主制廃止運動がマスコミ、立法、司法、行政を味方にして2008年戸主制が廃止された。外国からの評価はあったが、女性差別は無くならず、さらなる女性運動がしにくくなり、女性間の格差が大きくなりデメリットもあるという。

日本側からは市川房枝記念会の久保事務局長から市川房枝氏の女性参政権獲得までの活動と1952年に参議院に初当選後、選挙がきれいでなければ政治はきれいにならないという運動で、女性の政治教育を行ってきたことが報告された。

 

交流会の後半からは昼食を一緒にしながら韓国料理をいただいた。

 

地方議員との交流

ソウル市議会において、Jung Mi Aeヨセヨン理事兼国民大学日本学研究所専任研究員の司会で、韓国地方女性議員との交流を行った。韓国からは、Jo Gyu Youngソウル市議の副議長が、女性議員の一生懸命な姿勢は市民から理解されているが、まだまだ議席の獲得は難しい。女性の参画の環境を女性自身が整えていかなければならない。この交流をさらなる女性参画の環境づくりにしたいとの挨拶があった。日本からは市川房枝記念会の久保公子事務局長から市川房枝の意志を継いで、20年間女性の政治レポートの発行、女性議員と市民のネットワークのつなぎ役をしてきた報告をした。

韓国側の報告は、Lee Y00n Heeソウル市議から活動の報告がされた。超党派で、全国女性議員ネットワークを2008年設立。セミナーやワークショップを開催している。海外の政策研修や報告会の本を発行、また、女性議員の人権講座開催。教育に力を入れ政策を実現化している。女性の政治参画のため、議員の公募、広報にも力を入れている。2015年には女性国会議員との交流、スウェーデン訪問、2016年には日本を訪問し、災害時の防災対策、高齢者介護等について学んだ。

現在、クォーター制30%は守られていない。まだまだ理想と現実の開きはある。ソウル市議は106名中21名が女性。しかし、女性議員が増えたことにより、女性政策が増え、女性予算が全体の8%の2兆ウオンになった。担当課が局に発展した。先輩女性たちの運動のおかげである。

日本側からは、調布の大河市議より活動の報告をした。地方議会の女性比率は12.1%。女性議員不在の自治体は50議会ある。都市部は比較的多くなったが小さな市町は少ない。女性の無所属議員は多い。市川房枝記念会には全国から女性議員や候補者をめざす女性が研修に参加している。女性議員は住民目線の暮らしの問題、子ども、貧困、DV、虐待、命、平和等の活動が主になってるが、予算、決算等の財政面についても研修を重ねている。議会報告会を議会終了後年4回開催している。

質疑の中では、クォーター制の理解はどのように深まったのかということが出された。女性団体や女性議員が結集して行動することで、市民に社会的共感が広まったという。そして、30%の努力義務を強制的にしようという動きがでて来たという。韓国は政党公認議員が殆どであるため政治制度の違いがある。日本の無所属地方議員の動きは市民により密着した政治になっているという意見が出された。

 

夕食交流会

韓国地方議員の方たちと議員会館の食堂で一緒に夕食をいただいた。通訳がないとなかなか通じないが、スマホを片手に英語の単語に翻訳してなんとかその場を乗り切った。言葉の壁は厳しい。

(写真)市議会議員との交流会

(写真)市議会副議長と共に

 

7月27日

ソウルNPOセンター

非営利、非宗教、非思想が原則。全国で登録は1572団体ある。その中でソウル市内には24.5%が集まっている。NPOに対する信頼は大きい。1987年の民主化と深く関係している。「ウォッチドッグ」政府を監視する権力の番犬ともいう。 NPOの歴史は、1989年経済民主化が進み、軍部独裁反対運動として反対勢力ではないオルタナティブ(既存のものに取って替わる)団体として発足。2000年にNPO支援法ができた。

2000年代は、画期的な成長期で多くの女性団体ができ、ネットワークを組み、ボランテァ、人権、シェアの概念、IT化で大きく広がった。そして、市民団体だけではなく、街づくりを通して住民参加をめざす、社会的企業の登場で株式会社も公益を求める動きが出る。また、NPOが政府とともに活動することで、直接住民参加の形を取り、住民提案を市が政策化する。NPOは政府権力の番犬とともに一つの柱となった。

NPOの成長拡大につれて、活動で精一杯になり、NPO間の協力が薄くなり人材育成が個別NPOでは難しくなった。そこで、中間支援組織のNPOセンターが、現ソウル市長によって市の予算で2013年設立された。市民活動のベースキャンプ的存在。14名で運営している。NPOが活動するには寄付だけでは賄いきれず、政府や企業からの支援が必要。財政支援の顔色ばかり伺っているとゴールが見えなくなってしまう。そのために行政や企業との架け橋になり財政支援につなげている。さらに広域活動支援、世代間の文化ギャップの広がりを乗り越えるプログラム作成、実践事例の広報、アピールして知らせていくことをしている。政治とNPOとの関わりは非常にデリケートで、特定政党を支持できないため、政治に関わるものに就くときはNPOの役を降りることも前提となっている。NPOセンターのモデルは日本。日本で研修をして取り入れた。

 

 

「水曜デモ」観望

日本大使館前の「水曜デモ」観望。韓国の日本大使館前にて毎週水曜日に、慰安婦問題の日本政府の謝罪と早期解決を求めデモをしている。高齢のハルモニに代わって比較的若い世代(高校生くらい)の参加が多かった。知るべき歴史であり、学校挙げての参加をしている。2015年12月28日日韓合意によって設立された「和解・癒やし財団」に日本政府が拠出する10億円をめぐり、日韓政府の見解の違いが混乱を起こしている状況で、このようなデモの場にいることが非常に厳しく苦しかった。

 

人権博物館

戦争と女性との人権博物館訪問。日本軍慰安婦被害者が経験した歴史を記憶・教育し、日本軍慰安婦問題を解決するために活動する空間になっている。また、現在も続いている戦時性暴力問題を解決するため連帯し、戦争と女性への暴力がない世界をつくるため行動する博物館になっている。

日本軍の文書、関係資料の展示によって、日本軍の慰安婦問題の真相を明らかにし被害者が経た苦痛と戦後の状況を示している。現在も続く水曜デモの映像と日本大使館前の平和の碑が展示されている。また、写真や新聞報道などで被害者の人生の記録を提示している。昨年終戦70年を迎え、解放後の慰安婦被害者の生存者と同時に故人となった慰安婦被害者への追悼の展示があり、真の開放を願う空間となっている。

最後の展示室は、韓国がベトナム戦争に軍隊を派兵した。その時多くの女性をレイプし、多くのベトナム民間人が殺された。韓国が日本軍の被害に遭い、ベトナムは韓国の被害に遭った。ベトナム人女性が韓国軍から、同じ被害を受けていたということを明らかにし、性暴力の被害がどれほど苦しいものなのかをしっかりと伝え、二度とこのようなことがないように願いが込められていた。

非常に苦しい空気だった。戦争は人間を狂わす何者でもない。歴史を正しく認識し、女性への性暴力の根絶に向けて人が人として尊厳を持ち平和に生きる社会にしていくことが私達の使命だと強く感じた。

 

慰安婦問題講演

韓国挺身隊問題対策協議会チーム町のヤン・ノザさんからの講演を聞いた。

日本の植民地化から開放された71年前の8月15日。開放の日と思っていたが、自宅に戻っても両親や村の人々からも疎外され、貧困にあえいでいたが慰安婦ということを恥ずかしいと言われ、黙っていろと言われた。韓国政府も何もしてくれなかった。1990年に挺対協を設立し、社会問題化されなかった日本軍慰安婦問題を女性の人権問題として平和運動として世界の女性人権活動家たちと歩んできた。戦渦に巻き込まれ無慈悲に性暴力の被害者となり、一生を苦痛の中で生きてきた日本軍慰安婦被害者は、全世界に真実を証言し、平和と女性の人権を叫ぶことができた。2013年「ナビ基金」を設立し、戦時性被害女性支援する寄付金を集め、女性が差別と抑圧・暴力から開放されるためにコンゴ、ベトナムなどへ支援金を送っている。

 

7月28日

独立記念館

日本の植民地支配を受けた韓国が自由と独立に向け歴史を記録した記念館。

天安市にあり、広大な敷地内に7つにわかれた展示館と野外展示物がある。駐車場から歩くこと20分ほんとうに広い。日本帝国の侵略と韓国人の苦難の歴史が展示されている。日本語訳での説明がイヤホンを通して聞くことができる。リアルな表現で言葉を失う場面が多々ありおも苦しい気持ちになった。韓国の若者の来館が多く、反日感情を持つのではないかと危惧した。しかし、その時のガイドは、日本人を憎むのではなく歴史を知って、繰り返さないことを学ぶということを伝えていたことに感銘した。

 

5.18記念センター

広州市5.18記念文化センター訪問。5.18民主化運動について全容を説明を受けた。

1979年朴大統領の死を機に始まった民主化運動「ソウルの春」。全斗煥による軍事クーデターに抗議した学生のデモが行われ、学生と軍隊が衝突、市民も学生を支援して広州市内は騒乱状態となった。市民軍に対して武装ヘリを動員した空挺部隊が鎮圧に乗り出し、大きな犠牲を出した。しかし、1980年代の独裁に反対する民主意識を育み、民主化運動を成長させる引き金役を果たしたということと、初めて民衆が歴史の全面に登場し、民衆が原動力であるということを確認したことの評価である。

説明をしていただいた方は、流暢な日本語で熱心に話され時間オーバーするくらいだった。その背景には、光州事件の時、多くの市民の犠牲がでたが、自分は生きのびて来た。償いのために広州文化研究所研究員として、ボランティアで今日は説明させてもらっている。そして、民衆の人権・大同団結が韓国の唯一の素晴らしい精神だとも話された。

 

7月29日

子鹿島ハンセン病院

子鹿島(ソロクト)の国立ソロクトハンセン病院を訪問。

日本の植民地下に置かれていた時、日本と同じような隔離政策で子鹿島に隔離された当時の施設を見学。今年で開院100年になる。1930年代に隔離政策で強制入院させられた87歳の女性から話を聞くことができた。1936年、両親を早くなくし、祖母に連れられて入院。親のいない子は特に重労働を課せられたという。ろくな治療も受けられず、レンガの製造や海藻取りなど過酷な強制労働を強いられ病状が悪化していった。1963年伝染病隔離法が変わり、1970年代から専門治療が行われ、2009年に人権侵害が認められ謝罪を受けた。その間、26歳の時2歳年上の男性と結婚し64年間一緒に生活をしたが、すでに亡くなった。3年前からボランティアの支援を受け、息子のような若者が、週に3日病院に来て身の回りのことを面倒見てくれる。

両手、両足、目が不自由だが、今は落ち着いた気持ちでいられると話した。私たちに日本語の歌をプレゼントすると言われ2曲しっかりと歌ってくれた。

 

7月30日

民主公園

民主公園の中にある民主抗争記念館の入り口ホールに掲げられているのは、韓国の四大民主化運動を描いた絵だった。館内には多くの絵が当時の生々しい描写で描かれていた。

 

朝鮮通信使歴史館

1607年から1811年まで12回にわたって韓国から日本に文化交流のために来た、平和的関係を維持させた公式的な外交使節団の詳しい歴史の展示館。ソウルを出発し、釜山経由で日本の江戸に到着するまでの行路が詳しく紹介され、朝鮮通信使が乗った船の模型や衣装などが展示されていた。